”つながり孤独”って?

昨日NHKで「つながり孤独」っていうものについてやっていました
皆さんはご覧になっていたでしょうか?偶然に見ました(いつもは中国ドラマDVDしか見ないので)

つながり孤独…SNSやスマホで人と繋がっても寂しい。本音が言えない。顔の見えない関係では薄い関係になってしまうけど、だからといってリアルな関係に移行する勇気はない…

そういうことらしいですが、
こういうことは何も今に始まったことではありません
なぜ今更「つながり孤独」と名称してNHKが特集しているのか?とも思いました

 

こういうことはミクシィ全盛期からありました
ミクシィ全盛→ミクシィ疲れ
ツイッター全盛→ツイッター疲れ
フェイスブック全盛→フェイス疲れ
スマホ大普及→スマホ付き合い疲れ
ライン全盛→ライン疲れ
そして今はインスタが全盛になっており、その結果インスタグラム疲れがそちこちで囁かれています

こうしたSNS、スマホ疲れとそれに伴う孤独・悲しみ・誤解・嫉妬・比較・怒りなどは昔からあります
太古の昔ミクシィが流行った時からさんざん取りざたされ、
皆が悩み、社会学的にも調査され研究されもしてきました

珍しいことでもなく、今取りざたすることでもなく、むしろもっと前から真剣に皆がこれを議論して、
真剣に人との繋がり、人との付き合いの在り方について話せるように環境を整えるべきだったと思います

私はもうずいぶん前からSNSには疲れ切っているし、孤独を感じるので、SNSとは距離を置いています
偶然ですが昨日もSNSでのトラブルについて書きました
あのように、日本人が暴力的になってきているので、SNSでもどのような風にして
人に言いがかりやあてつけをされ、ストレスのはけ口にされ、言い様に扱われるかわかりません

それに、所詮SNS、と思っている人が多いので、こちらがどんなに誠意をもっても、丁寧に対応しても
相手が急に消えたりぞんざいな態度で出てくることも珍しくありません

ケンカするつもりなど毛頭ないのに、ケンカを売られることさえあります

そして一番私にとってつらいのが既読スルーと返信無視です
人を無視するってことは、まあ一種の暴力ですね

忙しいので返事ができない場合も多々あります
それでもいつかは、返事ができるでしょう
スタンプの1つくらいは送れるでしょう
それでも既読スルーして無視するのは、ただ一つ相手に愛情がないからです
以前アンドリューに「なんでメールを無視する人がいるんだと思う?
彼らは一様に忙しいから返事ができないと言うけど」と聞いたら、

「メールを無視するのは忙しくて時間がないからじゃないのさ。君に返事を書く時間を持つつもりがない、っていう意味なのさ」と言っていたけど、ある意味ではそうだと思います。

相手が愛する人なら、振り向いてほしい彼や彼女だったら、人は這いつくばってでも返信するでしょうね。このように、返信するということは愛情の度合いを表す、だからこそ人は既読スルーにとても傷つくのです。

自分は愛されていないと。振り向いてもらっていないと。関心がないんだと、そう思わされるからです。

 

そう言うことが、ミクシィ「足あと」時代からありました
ミクシィの「足あと」は画期的なミクシィの機能でしたがそれが人を大変傷つけ、
トラブルや敏感な人間関係、人間関係の崩壊をうんだせいがミクシィ側は足あと機能を消しましたが、
それ以降一気にミクシィは下降していきました

SNSで孤独を感じたことは誰でもあると思います
何もかもうまく行ってそうで、誰にメールを書いてもすぐ返信がもらえそうな
クリスティアーノ・ロナウドみたいな人にとっては孤独でもなんでもないかもしれませんが
いつ知り合いになった人が消えるか分からない、いつ身に覚えがないことで責められるか分からない
普通の人にとっては、正直SNSやスマホなんてものは、孤独の象徴みたいなものです。

孤独を大量にうみだしつづけている媒体だと思います。あれで本当の人間のつながりや温かさを感じることのほうが、むしろ珍しく、そうなれたら、天の恩寵といえるくらいです

 

私はSNSでさんざん嫌な思いをしたし、無視されて孤独だったし、
人と比べて嫌な気持ちになったし、もうとっくにSNSは卒業しました。

今あるのはインスタグラムだけです。ここでは本当に多くの人に出会いますし、素晴らしい作品を出している人も多いので。でも私のアカウントにはたった40人くらいしかいませんし、
つくづく「いいね」を一万件くらいもらう人がうらやましいです。
自分は誰からも相手にされてない、と感じることがよくあります。
インスタグラムもまた私を孤独にしているのです。いいツールだと分かっていても。

一回くらいクリスティアーノ・ロナウドになりたいです。自分へのいいねがどうでもいい写真に1万以上つく人生を送ってみたいです。人から称賛され愛され注目され、決して無視されない人になってみたいです。

 

そういう気持ちにさせるから、SNSはほとんどやらないのです
スマホ自体も卒業しているといっていいかもしれません
実は今スマホの電源を切っています
理由は、度々書いてきましたが国際交流クラブの活動で
返事が来ない人達に腹が立ってもう嫌になってしまい、
疲れ切ったので感情的になりたくないからスマホ自体をボイコットしたのです

この国際交流クラブも、相方の失踪により何度も存亡の危機にあったのですが、
私の決死の努力(と自分で自分を褒める)によって何とか持ち直し、
今ではトラブルもなくなり、参加者は増え続け、参加者同士の関係も絆が少しづつ生まれ、

一見とても順調です。それだけ聞けば、とても活動的に素敵なことをやっている、素晴らしい仲間に囲まれsweetdaisyさんなんてキラキラしているのでしょう、と思う方もいるかもしれません。

でも実態は、これを維持することは未だにとても大変であり、そして孤独なのです
未だにこれだけの人と人種国籍も多文化であるグループをまとめることは難しく、
ほとんど不可能に近い。しかも気まぐれな人もいまだ多く、大事な要件だからと何度言っても返事なし。

返事途中で切れることもあり。何を考えているかも分からない。
私がSNS内のグループでいくら経過を告知しても
「いいね」一つ反応もなし。こんなに一生懸命やっているのに、

なんでだろう?やっぱりエゴだとは思いますが、「よくやったね。」くらい言ってもらいたいです。
このグループの班長がクリスティアーノ・ロナウドだったら、
きっとみんないいね!いいね!しまくって、
沢山の称賛を大げさくらいに彼にするでしょうな〜。
そううがった考えを持つほど、孤独を感じるのです。

そう、上手くやっているのに、参加者も増えたのに、それでも孤独。

そういうわけで、私はスマホ停止。
そして一旦スマホをやめてみると、すごく楽です
私はもともと、スマホなど持つつもりはありませんでした
で、今でもピッチという太古の昔の絶滅したと思われている機器を使っています

ずっとピッチで良かったのです
私は日本人がずらりと並んで皆が一様に顔を下にむけてただスマホの画面を眺めている、
そういうぎょっとする光景の一部になりたくはありませんでした
皆が、スマホを使っているのではなく、スマホに「使われている」ようにしか見えない

スマホの奴隷になってしまっている

それに気付いていない
ひたすらスマホをやっている、ひたすら人からの返事、既読か未読かを気にしている毎日、
ひたすら自分が人から「相手にされているか(愛情をもらえているか)」を気にする毎日。
そういうものを送りたくない、

だからスマホは絶対買わないと決めていました

ところが…
携帯ショップに行って今のピッチを新しいものに更新しようとしたら、
「これに無料でスマホを付けられます。そしてさらにピッチの通信料は無料になり、
スマホとピッチ、両方使えてお得プランがありますよ」と言われてしまった!

それで私は強引にスマホを持つことになったのでした

私の予想どおり、スマホは私を疲れさせました
でも生活にすっかり溶け込んでしまっているのも事実です
今やピッチだけでよくやってきたなとおもいます

でも、でもですよ、孤独はスマホだけが原因ではない、です

私が思うに、スマホやそれに付随した様々なSNSは確かに人を幸せにするよりも、
今まで行ったように人間関係を猜疑心いっぱいにさせ、つらくしんどいものにし、おまけに
虚飾の幸せを皆が見せつけ合うことで競争しあう不幸せまんまんのツールだと思います

結果、人の孤独感は大きくなりました
それらがなかったころには想像もできなかった孤独を、
余計な孤独を、人に植え付けさせる「凶器」になったのです

しかし、実を言うと孤独っていうのは必ずしもスマホやSNSだけが原因ではないのです

孤独っていうのは、スピリチュアルな意味でもっとかみ砕いて言うと、

「ハートが開いていない。ハートチャクラが開いていない。その結果ハートに愛が入ってこない」という状態です。心臓という臓器はとてもスピリチュアルな臓器で、ここがスピリチュアルなエネルギーつまり愛というものをすべてまず最初に受け取るといわれています。

ここからスピリチュアルなすべてのエネルギーが入り込み、ライトボディに必要なものも、ライトボディへ変容するのも、人がスピリチュアルな存在に変わっていくのも、本当の意味での神聖な純粋な愛を体験し感じ取り受け取るのも心臓、そしてそれと一つになっているハートチャクラ、さらに高次になってくるとハイハートなのです。

よって、このハートと言うのは愛にとても敏感です。

ハートはいつも、愛があるのかないのか、それは愛か虚偽なのかを、人が「頭」で考えるよりもっと先に、そしてもっと深遠な意味で捉えてみています。受け取り感じ取っています。

だからハートから生きよう、とスピリチュアルな世界ではよく言うのです。

人が「孤独だ」と感じる時、それはハートが愛を受け取ることができなかった、ということを表します

あるいは愛を与えることができなかった、愛に対して素直な気持ちでハートを開けなかった、ということを表します。孤独と言うのは単に状況や感情のことではないのです。もっとスピリチュアルな意味があるのです

そしてこの孤独は、スマホがあろうとなかろうと、現代に蔓延していますし、さらに言うと人間が生まれてからこの方、一部の文明以外においては、いつも人間共通の体験であり感覚でした
なぜなら今言った通り、多くの人はずっとハートを開いていないからです
あるいは、人類は共通してハートを開いてきませんでした

そして戦争や競争ばかりして、人と比べることばかりしてきました
そのなれの果てが今のSNSでの人との競争と比較です
SNSがあるからハートが開けなくなり愛が入ってこなくなったのではなく、ドストエフスキーの本を読んだって今に通じる孤独は書いてあるし、現代近代古代関係なく、
ハートが開いていないからSNSに多くのロンリネスが見られるのです

もし私たちが素直に、子供や赤ちゃんみたいにハートを開いていて、
愛について疑いもなく、愛を受け取ることも愛を与えることもただ純粋にできるのなら
スマホもSNSも余計なマイナス感情やトラブル、そして孤独を感じさせるものにはならなかったでしょう

人の心は、まずハートチャクラが開いていないと孤独です
次にそこに愛が入ってきて満タンにできないと孤独です
そしてまた、与えられた分人に愛を与えられないと孤独です
そういう「愛の欠如」が孤独、という名称で呼ばれているだけなのです

なぜこういう状況が蔓延しているのでしょうか?
多くの人が、日本人だけでなく世界中の多くの人が、ハートを開くとはどういうことかを
知らないからです。先にも言ったように人間は古代から戦争に明け暮れていましたし、
階級や貧富等の身分の格差があって当たり前で、ついこないだまで人権さえなかったのです
そして今でも多くの国で人権は尊重されていません、日本を含めて。

現代は戦争している国は少なくなりましたが、その代り企業同士で戦争し、個人同士で戦争しています

企業は利益を巡って戦争し、個人は「幸せ度」を巡って争っています

何とかして自分が一番幸せでリア充なのだと、何としてでも見せつけたい。

そのエゴの「リア充王」への執拗なまでの欲望が男女問わず激しく存在するこの世界では
まさに「戦争」し合っている如く幸せ競争をしています

そしてお互いに嫉妬し、悔しがり、人の芝生の青さばかり見ているのです
私がクリスティアーノ・ロナウドの芝生が大いなる青い芝生なんだろう悔しい!と
いっつも思っているように・・・

人類がハートチャクラを純粋に開いていた時代などほとんどないか、
あったとしてもわずかな文化エリアだけでした

それ以外はほとんどハートチャクラは固い門のようになっており
愛を与えることも、愛を受け取ることもしてきていません
だから本当には、愛とは何かもよく分からないで来てしまいました

今更、スマホがどうとかこうとかいうレベルではないのです
ここまで戦争と競争に明け暮れて来たんですから・・・

よくそういうとき、「孤独もいいものだよ」「孤独を愛し、自分と対話してみよう」とか言う人もいますが、私にはそれは答えになっていないと思います

確かに自分を見つめ、自分が本当は何を思い何を求めているのかを知るために
内に入ることは大事だと思います

でもそれも順序があるんです
孤独を愛せるようになり、一人でも楽しい、一人でも自分と対話できるようになるためには
やっぱりハートが開いていること、ハートが愛にある程度満ちていること、が先決です

ハートも開いていないのに、自分と対話することはできませんし
インナーチャイルドとも対話できないどころか内なる子供と出会うこともできません

まず何よりも、ハートを開き、ハートに愛を満たすことがなければならない

いつも言うことですが物事には順序があるんです

スピリチュアルな意味での「孤独」というのは、社会心理学的な孤独、ロンリネスとは違うのです
そこをスピリチュアルな理解が十分ない人は混同しています

スピリチュアルな意味での孤独というのは、実際には孤独ではなくて、
スピリチュアル・サンクチュアリともいうべきものです
つまり、自分の内なる聖なる最高の静けさ。
そこは至高の場所で、そこにおいて自分と、ハイヤーセルフと、高次の存在と、源と私達は
一緒になれるのです

だからこそ昔からお坊さんや道教の道士、僧院のシスターやヨギー、武術家などは、
自分一人で山や川に分け入り、何ヶ月もそこに一人でいて、瞑想と観相の時間をとっていました

武術の世界には面壁という修行があります
これは何年も一人洞窟に入り一人で瞑想と修行のみをする生活をすることで
それによって腕が格段に磨かれ、気が満ち、己を知るのです

こうしたスピリチュアルな道を行く人たちは、むしろ好んでスピリチュアルサンクチュアリに入り
それなくして魂の成長はないと考えます
そして目指すのは宇宙、最高の源との一体であり、自己と自我を捨てることです

・・・・さて一般の人々が、SNSで友達がいいねしてくれない、と言って悩む人々が
そのような生活をそもそもしたいと思うでしょうか?

物事には順序があるんです
こうしたスピリチュアルサンクチュアリに入れる人、スピリチュアルな意味での孤独に入れる人
自分といくらでも対話でき、自分の中の神我と対話しようとする人はそもそもがすでに
ハートが完全に開いており、人に与え人から与えられ、そしてすべては天が与えてくれるものだと
思うまでに至っているので自我はなく、瞬間瞬間輝いていて感謝に生きられるのです
私の尼さんの友人がそうでした

でも今皆が悩んでいるのは、そういう次元の孤独、ではないはずです
ただ自分が愛されたい、愛したい、愛を受け止めてほしい、自分をわかってほしい、

自分の本音を聞いてほしい、本音で話したい、本当にわかり会える友情がほしい、絆がほしい、承認されたい、自分には価値があると知りたい・・・・泣き出しそうなまでに悲しい、ハートの満たされない状態という意味での孤独。

これはスピリチュアルな高次のレベルの孤独とは全く違うので、簡単に「自分だけの時間を大事にしよう」という話ではない、と私は思います。それは、ハートが冷たく固まっていたら、やってもできないでしょう。

 

だとしたら、どうすれば「つながり孤独」というものを解消できるのか?
正直私にはわかりません

私にもそういう体験があり今でも孤独がくすぶっているからです

私は先に述べたスピリチュアルサンクチュアリに入り、自分だけの魂と出会う聖域を持っていて
それを楽しむことも尊重することもできます
だから本当の意味で孤独とはあまり感じていません
でも一方で人との繋がりがほしいし、友情が大事だし、それが壊れると非常に傷つきます

私はまだ解脱したような存在ではないので、

至高の源と一体になれればそれでいい、というすごい人ではありません

この種の社会に蔓延する孤独は、そう簡単には解決されないし乗り越えられないものだと思います

ただとにかく一つ言えることは、ハートが主体であり、まずハートを開き、ハートから自分を愛せるようになることが第一。それから人を愛せるようになり、全体を愛で見ることができるようになり、スピリチュアルサンクチュアリも愛せるようになっていく。

だからハートを開き、ハートの痛みを取り、ハートで感じ考え愛せるようになるということから始めるしかないと思います。

その方法は様々でしょうし、ここでまたあまりディープスピリチュアルな方法をおすすめしても、スピ嫌いの人や心じゃなく頭でしかとにかく生きられない人々には、意味をなさないと思うので、書きません

ただ何か受け入れやすい方法があるとしたら、

やっぱり思い切って自分の本心・本音・真実をはなせる機会をなるべく多くもつこと、同じ気持ちである人と良い友情を持ち、自分をシェアしていくことだと思います

一時期、トーキングソウルというイベントが流行った時期がありましたが、

それは今でも広まっているのでしょうか?311の後、人々が少しスピリチュアルなことに興味を持ち、自分の魂から生きる語ることを真剣に考えたときがありました。あのころ、トーキングソウルというイベントが多く行われていました

 

これはソウルレベルで、つまり真実自分の思うことを、順々に語り合っていくイベントです
イベントごとに色は違いますが、普段隠している自分、言えないこと、恥ずかしい気持ちなどを超えて
とにかく真実をかたり、嘘の笑いや虚飾のリア充自慢などをしない、そういうためのイベントです

こういう小さなイベントやワークショップが、もうちょっと広まってもいいと思っています

私自身もその重要性を感じてきました
だから、瞑想ワークショップでも、お互いの体験をシェアする機会と、語り合う機会を作りました
読書会も、実はトーキングソウルのために主催しているものです
本を介在にすれば、自分のことを語りやすいかもしれない、そう思ったんです

私は実はいろいろな形で、トーキングソウルを行っていますし、これからもそうしていくつもりです

社会全体があまりにもハートが固まっており、冷たくなっているから。

その割に、感動映画がやたらに増えて、やたらにヒットしたりします
でも、自分ではその主人公になれない

もう、人の感動物語を「眺めている」ときではなく、自分が感動の中心であり、主人公になるべきときではないでしょうか

そのためには、一歩踏み出す勇気も必要です
とくに語り合いや自己表現を苦手とする日本人によっては、難題かもしれない、でも
やっぱり勇気が必要なんです、ホントの自分を開いていくって…

 

もう虚偽や虚飾の世界はやめましょう
本当の自分になっていいんです
純粋な自分、それが純粋な魂です
それこそ、キラキラなのであり、インスタグラムの「キラキラ」がただの
安っぽいイルミネーションにすぎません

真実を、少しづつでも、語りあえるようになりましょう

 

 

 

 

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