アセンション~地球と個人が新しくなる時,  新しいスピリチュアルな生き方,  新しい友へライトワーカー達へ

愛こそすべて?愛なんてうんざり。

大天使ガブリエル

スピリチュアルに限って愛がない?

この新しい26000年周期の時代は”愛がすべての時代”と言われています
愛こそがエッセンスであり、土台であり、社会構造すべての基盤であり、解決策になるのだと・・・
多くのスピリチュアル実践者がそう伝えています

新しい時代を生きるのに、そのエッセンスであり根幹である愛とは何かを漠然ととらえずに
もういちど思い起こすことが大事と思います

もちろん2013年からのこの新しい周期に入る前から、スピリチュアリティーの一貫したテーマは愛でした
愛こそすべて、愛に生きよう、愛が癒すのです、すべての人を愛そう、すべてを愛せるようになろう、自分を愛そう・・・etc

愛、愛、愛。私もよく「これからのキーワードは愛です」
みたいに、書いています

ところでその愛って何だろうか?

実は、よくよく吟味する前にスピリチュアルな世界というのは、”愛”という言葉で埋め尽くされている
まるでそう言っておけば上手く収まるさ、と言わんばかりに
本など読んでいると、まるでしつこい押し付けのようにさえ、時に思える

実は、愛というものの本質をスピリチュアルな人達、あるいはヒーラー、チャネラー、カウンセラー、教師たちは
分かっていないのではないのか?
と思うことも、ある。

”愛が全てです””愛こそ答えです””愛に生きましょう”と言いながら、
それが単なる自己陶酔的なスローガンになってしまってはいないか?

そうしてその一方で、”スピリチュアルです愛です”といいながら

平気で人を傷つけたり、詐欺したり、人間的に残酷だったりそうでなくても冷たい人達、
そんな人に私は多く遭遇してきた

”愛”という言葉に隠され、覆われて、愛と言っておけばキレイに見える
その化けの皮がはがれれば、愛は単にスピ業界に利用されているだけの虚無にさえ見えた

個人的には、私は上辺だけの”愛こそすべて”は好きじゃない
本当は、愛なんて言葉、おこがましすぎて使いたくない
スピリチュアル分野に蔓延している愛という言葉や結論には、正直うんざりすることがある

(自分も使っていながら・・・)

でも、おそらく私だけではないだろう
愛だ愛だといいながら、金もうけしか考えない人や、自分勝手な人たちをスピリチュアル分野で見かけた時。
愛を信じて自分を癒し、魂レベルの生き方に努力してもちっとも報われない時。
愛が解決するとさんざん本で読んだけど、人生は不幸なままだと思う時。
他者を愛さなければスピリチュアルになれないと思い、一生懸命他人を愛そうと思うのだけど、
怒りや嫉妬、憎しみなどを感じてしまう時。
これからの時代は愛によって変わると”スピリチュアルメッセージ”を聞いた/読んだけど、
世界は一向に変わらず重く、正直ピンと来ない時。

愛は優等生には分からない

確かに愛がすべてだ
愛こそがこれからの時代のエッセンスだ、と私も思う

けれどその一方で、愛はそんなに簡単なものじゃないよ、と自覚している
愛。そんなに簡単に、言ってのけたりやってのけたりできるものじゃない

私自身愛という言葉には慎重だ
愛って、まだ分からないから

私はヒーラーではあるが、”愛があたかもわかる、達観している、悟りを得た”なんてフリはするつもりがない
私にも分からない、まだ愛が何かはわからない

それを学んでいる最中だ

私は嫌なことはいやだ
嫌いな人は嫌い
酷いことをする人に、”あなたも愛ね、あなたのことも愛するわ!”なんてとても言えない
痴漢にあったら”あなたも大いなる愛の一部なのです、あなたにも愛を送るわ”って言える?
私なら”ふざけんじゃねーよ、バカヤロー!!”しか思わないよ
それって、とても悟りを得た人間のいうことではないよね、きっと

でも私は嘘がつけないんだ
思ってもいない、実践してもいないのに、”愛こそすべて”とか”皆を愛してこそスピリチュアル”なんてこと
言いたくないんだ

世の中には優等生というものがいる
スピリチュアル業界やスピリチュアル実践者にはこういう人が多い
私が大学時代から関わっている環境保全系の業界や分野にも多いと思う

そういう人たちは、表向きは”全ての人に優しく、万人に愛を、無償の愛こそ最高の愛、
地球にやさしく、地球に必要なのは愛です”、みたいなことを
平気で実践しているかのように言う

けれど、そういう人たちもどこか残酷なところを持っている
表ではにこやかにしていながら、違った場面で人を傷つけていたり、
抑圧した感情が後から屈折した形で出てきたりする

人間は誰でもネガティブなところを持っている
人には波動の低い、醜い弱い面が誰にでもある
それをあたかもないようにふるまい、”愛こそすべて”と言い出すと窮屈になる
何かが抑圧される、私は”嘘だ”と思う

だから私は優等生は苦手だ
優等生的に生きている人には、愛という本質に触れることは無理なんじゃないかと思う

なぜなら、愛に触れ愛を実践し愛に生きたいなら
やはりまずは正直に自分のありのままの姿を認めなければならないと思うからだ

己の醜さ、至らなさ、そういうものを真正面から見据える
それと共に生きていることを認める
そうすることで、それを癒し、解放する段階にはじめて入れる

”愛がすべてではない”自分、”愛せない”自分を認める
そこから拡大と成長が始まる、と私は考えている

愛せない、愛を信じられない自分を、それでは何が癒すのか?
それこそ、愛だ。愛が癒す、愛しか癒せない。
自分の中の神我、スピリット、神、創造主の、
いわゆるそれがコースインミラクルズの言う”あがない”が癒す
私たちはそれを受け入れ待つ、ゆだねるしかない
でも、そこまでの努力は自分でするのだ

その努力の第一歩が、”至らない弱気自分”と向き合うことだ

と思う。

そして単純に、弱い醜いところがいくらかあったって、その人に魅力がないとか、
愛の実践者じゃないとか、私は思わない。

少しぐらいダメダメなところがあったって、その中で愛を実践していけば、
それで充分じゃないか

スピリチュアルはあまりにも”完全無欠の愛”を追い求めようとし、自分の本心に沿わなくても愛のふりをしようとする傾向がある
だから結局窮屈になり、ムリが募り、ヒーラーがヘンに態度を変えたりする事態を呼ぶのだ

人間なんて、弱いなら弱くてもいいじゃないか。
それを乗り越えようとしている姿こそが愛すべきところでもある

私は”赤毛のアン”が子供の頃から大好きだったけど
多くの人もそう思い、アンは普遍的に愛されている
なぜだろうか?
彼女は決して”悟った愛実践者”じゃない。
憎しみ悲しみ嫉妬競争心エゴ恐怖心、など
おおよそスピリチュアルが真っ向から否定しそうな性格・感情むき出しにして生きている

それでも並はずれてアンが魅力的なのは、すべての人に共通する弱さを
自然にありのまま目いっぱい生きている魅力だと思う
何も”抑圧されていない”姿の魅力だと思う

不思議と、そういう人の方が愛に近いと思うのは私だけだろうか

 

 人間同士の愛、スピリチュアルな愛

学びの愛と無限の愛

それでも、私が”愛こそ絶対にすべてだよ!”と心から思うのはなぜだろう?

実際、私は真実そう思っています
愛がすべてです

それは私が”スピリチュアルな愛”をずっと経験というか体験しつづけてきたから
心底の実感として、愛がすべてだと”わかる”んだ

確かに、人との関係において、そして自分との関係においては
私は愛については、未熟で至らないヤツかもしれない
とてもすべての人を今すぐ愛せます、なんて言えないもの

けれど、神さま/創造主との関係においては、
愛がすべてだとはっきり言える

ここが、人間同士での愛と、スピリチュアルレベルでの愛との違いだ

より詳しく言うと、私は幼いころから、高次の世界からの純粋な愛を直接受け取るという
いわゆる神秘体験というのをしてきた
私は天使と非常に近く、天使から愛を、受け取っていたのだ

それをまだ信じられないという人が多くいるのは分かっている

でも天使の愛はすごいものだ
莫大で莫大でこちらがつんのめるほどの愛を送ってくる

歩いていて、天使がとてつもない愛を降り注ぐので光で目の前が見えなくなったことも度々あった
いつも吹き飛ばされそうなほど巨大な愛を与えてくれるのだ

それは無条件の愛である

それは創造主と、純粋に完全無欠につながった愛だ
だから、尽きることなくいつも超巨大な愛なのです

そして天使だけでなく”創造の源”ときちんとつながると、
いつもとてつもない愛が満ちて満ちて満ちて自分が愛でいっぱいになる

実際のところ、愛はいつも私めがけて降り注いでいる

そんな体験をし続けているから、私は自然に愛がすべてだなと”分かる、理解する”ようになった
ごく自然に、そう”考えよう”と全くしていないけど、そう感じそう思う

私は人間的には決して大した者ではない
結構短気だし、さっきも言ったように嫌いな人は嫌いです
怒りを感じたら、隠さず言う方ですし、思うことははっきり言う方です

こんなにスピリチュアルな世界から無限に愛をもらっているのに、
ちっとも人間としては大きくなれないのはなぜか?自分でも分かりません(笑)
常々天使にはその件について文句を言っているのだけど・・・

けれどとにかく、愛というものが本質中の本質であり、すべてのエッセンスであり、
最終的にすべての答えであることを体得的に知っている

だから、愛っていうのは理屈で考えるものではなく、
まして優等生的に語るものでもないと思っている

まず、体験ありき。

かなり昔の江原(啓之)さんの本に、
「スピリチュアルな愛を体験しないと、本当の愛は分からないと思います」
というようなことを読んで、それがとても大きく響いたことがあった
ずっとその言葉が響いていた
そして結局、自分もそう思うに至っている

スピリチュアルな愛を体験しないと、本当の愛は分からない、実感できないと思う

人間同士っていうのは、どこまでもエゴが出てくる
人間の中だけで真実の愛を体験しようと思うのは無理がある

人間が完全に神我だけになれば別なんだろうけど・・・
でもそうなるにはまずスピリチュアルレベルの愛を十分体験しないと、そうなれないだろうから
やはり最初にスピリチュアルな愛の体験が必要ということなんだろう

人間同士の愛っていうのは基本的に”学びの愛”だと私は思っている
愛について、苦しんだり悩んだりしながら学びあっている
喜びだけでなく裏切りも嘘もすべてが愛についての学び。

そう思えば、自分も他人も完璧な愛を出せなくても許せるようになり、

もっとおおらかに生きられる

人間に完璧な愛を求めたり、誰かに愛を出してもらおうと探し回っている人ほど哀しげなものはない

そういう人はいつかまた傷つくことを恐れてそれでも愛を求めさまよう

時に、本当にエッセンシャルな愛によってお互いが満たされることもあるだろうけど
基本的にはいつでも無条件に期待通りにそういう愛が人から与えてもらえるとは
思わない方がいい
それよりすべては学びだ、期待はしないと思っていた方が結局は楽に愛せる人になれると思う

人間には、パーソナリティとしての人間同士の愛、愛の学びと、
スピリチュアルなレベルでの愛の体験との両方が必要だと思う

それがそろう時、本当の意味で愛を実践して行ける人に近づくんじゃないだろうか

 スピリチュアル分野に愛を求めすぎない

ヒーラーをやっているとしばしば、過剰に期待する人に出会う
そういう方たちは、とにかく無条件に自分に愛を注いでくれる人をひたすら求めている

ヒーラーなんだから、愛をいっぱい出してくれるでしょ、何をやっても言っても私を愛してくれるでしょ
と言わんばかりに突進してくる

でも、そういうのはお断り。ときっぱり言うと、
とたんに「愛がない、あんなの本物じゃない」と怒り出す
時に怒りが嫌がらせになることもある

愛というのは依存ではない
例え自分がひどく傷ついていても、愛というのは一方的にもらうものではない
人間同士が愛を交換するには絶えずバランスが必要だ

ヒーラーとクライアントの関係もまた、
愛の学び、愛の交換であることには変わりがない

また、スピリチュアルワークというのは基本的にどんなものでも、

ヒーラーから愛をもらうのではなく、
ヒーラーは純粋に高次の愛の媒体にすぎない
すぎないといっても、高次の伝導管になりつくすということがどんなに努力のいることか・・・
(と言いたいのだが)
ヒーリングにおいていつでも、愛は高次から与えられる
でもその時、ヒーラーも純粋な愛の上に乗っていないと、ワークは効果のあるものにならない

愛を一方的に出してもらおうとか、逆に与えなきゃ与えなきゃとあせる関係はすぐ壊れる
愛というのはエネルギーなので、愛はお互いに交換しあうことがバランスよく維持する方法なのだ

だからヒーラーや、何であれスピリチュアルなものに関わる時、
「私は愛に飢えている、今すぐ愛がほしい~!!」っていう心がけはやめよう
それは結局いつか自分が傷つく道。
それより愛をそこで少しでも学び、高いスピリチュアルな愛に少しでも触れそれを理解するために、
そこで関わる人とちょっとでも愛を交換しながら仲良くやって行こう。
と思っていた方がいい

どうしても、スピリチュアル業界が愛だ愛だとさわぐから
スピリチュアル分野にはまれば、愛は入ってくる、愛してくれる人がやってきて私も癒されると思ってしまう

でもそこでもまた人間同士はえんえんと学び合いをしているだけなのだ

スピリチュアルに歩み出した人にはどうか知っていてほしい

理想的に愛をくれるヒーラーやチャネラー、講座や講演などない
理想の愛をどこかに求めることはスピリチュアルではなく単に依存だと

スピリチュアルというのは、自分を自分でまず認め、自分を愛し、自分を愛によって高めるという努めを自分ですることなのだ
どうだ、厳しいでしょう(笑)
そうだよ、スピリチュアルって厳しいものだよ

 

正直であるのも愛
~純粋な愛が流れるようにする

それでもやっぱり愛がほしいと、無償無条件無限の愛を私は必要としているんだと、
純粋な愛に身をゆだね愛を体験したいと思うなら

やはり魂の扉を開き、高次に自分を開くしかないだろう

高次のスピリチュアルワールドは、愛しかない
先ほども書いたように、まさに愛しかない
いやになるほど愛、愛、愛。愛。愛。愛だけだ

臨死体験をした人は至福に包まれ、人生観が変わるという。
それは圧倒的な完全な無限の愛を体験するからだろう

高次はいわゆる天国は、愛しかない。

その体験は、魂ないしスピリットにしか導けない

どうしたらそういう体験できるのですか?と言われても私自身なぜか分からないもの。

私はなぜ莫大な愛を天使から、もらい続けているのでしょうか?

誰かに教えてほしいです

以前「なぜ天使は私に関わってくるのか?」と天使に聞いた
するとすぐに
「あなたは正直だから。正直であることは純粋であること。正直さというのは人が考える以上に純粋なことです。
だから天使が入りやすいのです。人は善くない自分を認めたがらないけれどすべてをさらけ出しても
私たちがあなた方を尊重しないことは決してありません」

と言われた

ここで言えることは、何もスピリチュアルな高次元からスピリチュアルな愛をもらうのに、
隠しごとはしなくていいし、えーかっこしいーでなくても優等生でなくてもいいということ
それより、天使たちは素直であることを望むようである

私に言えるのは、莫大な純粋な愛はいつでもだれにでも開かれていますよ、ということ

愛はすぐそばにある

でもそのためには物質以上の自分を認め、愛が「入ってくる」ように自分を透明にしなければならない

透明にっていうのは、できる限りスピリチュアルな世界への疑念や恐れを解放することだ
そういうものがあると、いくら愛への待望があっても扉が開かない
愛が入りたくても自分でせき止めてしまうのだ

純粋かつ広大かつ無限のスピリチュアルな愛
それはすべての人が本当は自分に満たすべき愛だろう

けれど、それでもまだ、人生は容易に楽なものにはならない。
ということも付け加えておく
私たちにはパーソナリティとして体験していく必要のある課題もあるからだ

それでも、愛が本質の中の本質であり唯一の真実であることには変わらない

そしてすべての人が完全なる愛になった時、この世界から2元性は消え、その時本当に苦しみというものも消え、
私たちは愛を学ぶということから卒業し、愛にみちて愛であるという生き方に変容するんだろう

 

 

 

 

 

 

★愛について★

 

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